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「美熟女モノ」が生まれたのは亀頭のおかげ!?ただのOLが溜池ゴロー氏に聞く、AVの過去と未来・前編

ただのOLがAV男優・森林原人氏に聞く、正しい前戯・挿入方法をお読みいただいた方はお久しぶりです。そうでない方は初めまして。世の人々の性に関する悩みに敏感なただのOLすたん子(仮名)です。
先日の森林さんへのインタビュー終えて、前戯・挿入についての疑問は解消されたのですが、最近新たな疑問に頭を悩ませています。
それは、AVの歴史
熟女モノや痴漢モノなど、AVには様々なジャンルがあり、自分の好きなジャンルをおかずにオナニーをする男性も多いです。しかし、遥か昔は春画だった男性のおかず。そもそもAVはいつから生まれ、どういった経緯でジャンルを拡大していったのでしょうか
今回は、AVの歴史、新たなジャンルが生まれた経緯を探るため、美熟女モノの生みの親と言われているAV監督界の巨匠・溜池ゴロー氏にお話を伺いました。
前編・後編の2編に渡りお送りします。

登場人物


溜池ゴロー/1964年生(2016年12月時点で52歳)/明治大学法学部卒
大学時代から自主制作映画にのめり込み、大学卒業後は就職活動をせず、助監督に。その後、30歳時にAV監督としてデビューし、1300〜1400本の作品を制作。ロリコン至上主義だったAV業界で、美熟女モノを生み出した伝説のAV監督
現在はSODクリエイト社外取締役を務め、熟女系AVメーカー・溜池ゴローなど、自分の会社も立ち上げている。


すたん子(仮名)/アラサー
都内で働くただのOL。一般人よりもちょっとだけ、世間の人々の性の悩みに敏感。
森林氏へのインタビューをきっかけに、個人的にも性に関して疑問を持つことが増える。
最近は「AVの歴史」に興味津々。
今回は「世の人々の性に関する悩み」というよりは完全に私の個人的な疑問ですが、日頃AVにお世話になっている男性特異なジャンルに興奮する男性は、AVの基礎知識として是非お読みください。

AVが生まれたのは今から30数年前?当時のAV業界を作っていた、ビデ倫って?


まずは、溜池ゴロー監督がAV監督になった経緯と、当時のAV業界についてお話を伺いました。

「元々僕は大学時代に自主制作映画にハマっていたんですよね。
それで、色々映画を撮っていたんですが、当時(約30年前)は初めてのAVが世の中に生み出されて数年経ったくらいで、まだAV自体メジャーなものではありませんでした。
夜中にトゥナイトっていうちょっとエッチな番組がやってて、”これ、本当にやってんのかな〜?”なんて思うレベル(笑)。」


AVの歴史って意外と浅いんですね。もっと昔から男性のおかずとして存在していたと思っていました。
初めてのAVが約30数年前くらいで、まだメジャーじゃなかったとは…。」


「それより前は、映像機器自体が充実してませんでしたからねVHSがメジャーになって、家庭用のビデオデッキが普及したのが割と最近なんです。
そんな感じでAV自体に興味を持つことはなく、大学卒業後は、就職活動せずに映画の助監督になったんですが、全然監督にはなれなくてね。
今もそうだと思うけど、当時の映画業界って本当に職人の世界で、上下関係がすごいし、よっぽどの奇跡でも起きない限り監督なんてなれない感じ。」


「そんなこんなで”どうしようかな〜”って悶々としてたら、30歳の時(今から22年前)、たまたま知り合いのAV業界で監督をやっている巨匠が、そろそろ引退するから世代交代だって言って、僕に声をかけてきてくれたんです。」


監督になりたいけど、映画の世界だと難しそうだし、AVの世界なら監督になれるって言うんで、AV監督になることにしたんです(笑)。映画業界の人たちには散々止められましたけどね(笑)。
当時のAV業界は、自主規制機関である日本ビデオ倫理協会(以下:ビデ倫)が仕切っていて、モザイクとか色々厳しくて。毛は出しちゃいけないとか、アナルもダメだとか。絡みも実際にヤるというよりも、フリをしていることの方が多かったかな。」


「20年前くらいのAVって、そんな感じだったんですね。
後でしっかりぼかすということで、本物の行為を撮影することはできなかったんですか?」


「本物の行為を撮影することもありましたよ。でも当時はAV女優がアイドルみたいな感じで、人によって本番NGとか、フェラチオNGとか色々あったんです。
あと、当時はまだVHSの時代で、撮影もテープで行ってたんですが、撮り直しができないから、60分のビデオの内10分以内に絡みを始めないといけないとか、今より全然自由じゃなかった。」


「そんな中でも何本か撮ってる内に、ビデ倫が許す範囲内でだんだん自由に撮らせてもらえるようになって。元々助監督だったこともあって、当時はまだ珍しかったドラマモノを撮っていたらどんどん仕事が来るようになりました。」

助監督の経験もあり、AV業界では最初の頃から実力を認められていたという溜池ゴロー氏。美熟女モノの前に、ドラマモノを確立させたと言っても過言ではないでしょう。
また、溜池氏の話によると、AVが生まれたのは30数年前で、家庭用のビデオデッキが普及し始めメジャーになるまでにはさらに時間がかかったとのこと。自宅でエロ動画を見てオナニーができるようになったのは、割と最近のことのようです。

時代は一億総ロリコン時代!熟女好きの溜池ゴロー氏、ついに立ち上がる!?


ビデ倫で活躍をしていた溜池ゴロー氏。
ビデ倫による様々な規制やルールを守ってはいたものの、どうしても納得できないことがあったと言いいます。

「僕がどうしても納得がいかなかったのが、当時の“女は若ければ若いほど良い”という風潮。ビデ倫でも、若い子のAVしか撮らせてもらえませんでした
元々僕は年上の女性が好きで、当時も17歳年上の女性と付き合ってましたから、大人の女性ならではのエロさがあるのを分かって欲しかった。」


「若い子しかダメって…具体的に何歳ぐらいまではOKだったんですか?」


「うーん…20歳前後の子が多かったですかね。27歳からはおばさんって言われて、腹が立ったのを覚えています。
1億総ロリコン時代なんて言われていて、男は全員ロリコンだってみんな言うんですよ。当時の日本の人口が1億人くらいだったからそう言ってたみたいなんですが、だったらせめて5000万総ロリコン時代だろとも思いました(笑)。女はどこに行ったんだと(笑)。」


「だから、僕が撮らされていた企画も清純な女子高生モノばかりで、正直飽きてきちゃってたんですよね…。
35歳のときかな。もうブイシネマかなんかで、エロい映像撮ろうかな…とか思ってたんですが、そういう時に限って、なんか業界の賞とかもらっちゃうんですよ。
それでお祝いに麻雀大会に連れて行かれて、そこに高橋がなりさんがいました。」


「高橋がなりさんって、マジックミラー号とか、斬新な企画で有名なAVメーカー、ソフト・オン・デマンド(以下:SOD)の創業者ですよね!?
初めてお会いしたの、麻雀大会だったんですか!?」


「はい(笑)。当時SODの社長だった高橋さんは、レンタル専門だったビデ倫に対抗して、販売を目的としたセルビデオを作っていて。会った瞬間“うちでも撮ってくれないかって言うんですよ。
高橋さん、僕の作品見たことあるんですか?“って聞いたら、ないって(笑)。でも、”俺ねぇ、プロデューサーだから、人間の顔見たらそいつが良い物作るかすぐわかる“って言われて。そんな言い方されたら誰だって嬉しいですよね(笑)。」

「流石、高橋がなりさん。
人の口説き方を分かってますね(笑)。
当時のSDOって、既にマジックミラー号とかあったんですか?」


「ありました。当時すでにSODはマジックミラー号とか、地上20メートル空中ファックとか色々やってて、その先陣を切っていた高橋さんは、もう戦国武将みたいな人でした(笑)。AV業界を牛耳っていたビデ倫を叩き潰すって。
それで、僕も“本当は美熟女モノをやりたいんです”って言ったら、”じゃあやろうよ“って言ってくれて。
ビデ倫を抜けて、ビデ倫の敵関係であるセルビデオの世界に転向しました。ビデ倫の人たちからは、”毛が見えるセルビデオなんて絶対ダメだ”とか”男はみんなロリコンなんだ”とか色々言われましたが…。」
当時のAV業界の中枢となっていたビデ倫を抜けて、敵対しているSODで美熟女モノを撮ることにした溜池ゴロー氏。ビデ倫側からは相当反対の声が上がったようです。
しかし、この時ビデ倫に対抗してセルビデオを作った高橋がなり氏や、高橋氏の元で新たなジャンル、美熟女を生み出した溜池ゴロー氏がいなければ、今日のような自由なAV業界はできていなかったことでしょう。

溜池氏の亀頭がなければ美熟女モノは生まれていなかった???新たなジャンルの誕生秘話


高橋がなり氏の元で美熟女単体モノを作ると決めてから、実際に売れるまで、どのような過程があったのでしょうか。
詳しいお話を伺いました。

「売れるAVを作るには女優さんが欠かせません。ビデ倫の時はキャスティングされた女の子を撮れば良かったんですが、SODではキャスティングから全部自分でやるように言われて。今までやったことがないので、誰を起用すれば良いか分からなくて。
だけど、売れなかったら高橋さんに申し訳ないし、どうしたらいいか悩んでました。」


「そんな時、ちょうど格闘技のプライドっていうイベントが始まったんです。決勝でヒクソン・グレイシー髙田延彦が戦ったんですが、ヒクソンが勝って優勝しました。
その後、テレビでヒクソンのドキュメンタリー番組がやっていて、強さの秘訣を聞かれた時に、“私は試合の前2週間ザーメンを溜める”と言ったんですよ。」


人間の体は2週間ザーメンを溜めると、エネルギーが充満するんですって。
それを聞いて、僕、”これだ!”と思いました。もう頭で考えても分からないから、亀頭に頼ろうと。それで僕も、その日から女優さんの面接まで10日間ザーメンを溜めました。最初に勃起した人を採ると決めたんです。」


「えええええええええええええ。
本当に、考えるの辞めましたね。ヒクソンもびっくりですね。」


「1人目、2人目の人は、綺麗だったし魅力的だったけど勃ちませんでした。でも、3人目の人に会った瞬間勃ったんですよ。それが、川奈まり子です。即採用し、川奈まり子を主演に美熟女モノを撮ったら、1万本を越える大ヒットになりました。1999年のことです。」


「それ以降、美熟女モノがバンバン出て、今ではAVの1つのジャンルとして確立されました。よく、美熟女モノを作ったのは私だと言われるんですが、本当はヒクソンなんですよ(笑)。
あと、全ての男性に覚えておいてほしい。男には脳みそが3つあって、それは右脳と左脳と亀頭だということを。」


「め、名言すぎる…!!!
溜池さんの亀頭なくして美熟女モノは生まれなかったんですね
1億総ロリコン時代から美熟女モノが生まれて…そこからAV業界はどうなっていったんですか?」


「そこから、エロがどんどん多様化していき、色んなジャンルがどんどん生まれて、自分のオナニーに合わせておかずを選べるようになりました
ちょうど、世間も、擬似絡みで擬似ザーメンが多かったビデ倫の作品にだんだん飽きてきていたというのもあると思いますが、SODはどんどん時代の波に乗って行き、高橋さんの言葉通り、ビデ倫は本当に潰れました(笑)。

AVの確立されたジャンルの1つであることに、何の違和感もない美熟女モノ
しかしそれが生まれた背景として、ヒクソン・グレイシーの名言亀頭に頼った面接など、様々なストーリーがあったことを知る人は少ないでしょう。

ついにビデ倫が潰れて、セルビデオの時代に…!その後のAV業界はどうなる!?

溜池ゴロー氏がAV監督になった経緯や、ビデ倫時代からセルビデオ時代へ移り変わるAV業界の歴史、そして美熟女モノが生まれた背景などをお聞きした前編。
溜池ゴロー氏の亀頭なくして美熟女モノは生まれなかったと言う事実に驚きを隠せない方も多いのではないでしょうか。
後編では、美熟女モノがヒットした1999年以降〜現在までのAV業界、そして溜池ゴロー氏が考えるこれからのAV業界についてお聞きします。また、おまけとして初の美熟女単体モノで主演を務めた川奈まり子氏溜池ゴロー氏がその後結婚するまでのお話もお伺いしたので、気になる方は是非チェックしてください。
AV監督VS素人の時代到来!ただのOLが溜池ゴロー氏に聞く、AVの過去と未来・後編こちらから。